自由帳

記録とリハビリのための散文

コロナ禍、GW、閉鎖病棟にて。

夫と離婚する際のDV騒ぎで隔離目的と躁転をなんとかするために閉鎖病棟に入院する事になった。

コロナが大流行してから入院するのも簡単にはいかないらしい。PCR検査の結果が陰性なら入院できます、と言われ閉鎖病棟の一室に完全に隔離されて1日か2日かかってやっと本格的に入院の許可が出た。

今回は2019年の正月に入院していた精神科にお世話になりました。ICUから紹介してもらってから2年間通院している病院で、担当医も信頼できるし大体の雰囲気も分かるからここしかないと思ったのです。何より喫煙や外出の自由度が高い所が他の病院と違うように感じる。

と思ったけど、今回の入院は"コロナ禍で"という事を完全に失念していた。
いや頭では分かってたけどここまでキツイものとは思ってもなかった。

まず
・面会できません
・外出できません
・喫煙できません
・もちろん飲酒できません
・買い物は売店のみ(平日10~16時)

▪️面会できません
まぁ面会できひんのは分かる。というか私に会いに来る人ってほぼおらんからそんなに困らん。家族でも他人でも関わるのがしんどい私にとってはむしろありがたい。

▪️外出・喫煙・飲酒できません
娯楽が完全に奪われるとこんなにもしんどいとは…
前に入院していた時はよく喫煙所でたわいもない話をしたり外泊してビールの一杯でも飲む事がどれほどの救いだったんだろうと改めて感じた。

キツイと思ってるのはもちろん私だけではない
50人ほど入る病棟で言葉のやりとりが出来るのが5人ほどだったけど、話せる人からどんどん強制退院していったり、パニックで暴れて保護室に入れられていった。
重度の精神疾患、知的障害、認知症の人と一緒に"収容"されて24時間一緒にいると気が狂う。そりゃそうだ、家族も面倒みれませんと匙を投げるほどの重度の人達が集まる所だ。そんな所で娯楽もなくどうやってシラフで過ごせる?こっちだって精神疾患だからここに居るのに、と他の患者と話したのを覚えている。前の入院の時はどうやってたっけ?

離婚の件については両親が手伝ってくれて無事離婚成立した。新しい生活のスタートだ、早く退院しよう…と思ったが家の事情でもうしばらく入っておいてほしいと言われた時は…。私が病院から出られず貯金もなく入院費や書類関係は全て親任せだったので「わかりました」と言うしかなかった。30にもなって情けないね。

▪️買い物は売店のみ
叫び声とよくわからない言葉や脈略のない会話で健常者との会話でもしんどいのに、耐えられなかった。
根性焼きも酩酊もできない状態でふと「摂食障害で良かった」という言葉を思い出した。売店が開いてる時間に食べ物を買い込んで時間を問わずカショオしていたが、看護師や他患に食べている事に関して触れられるのが嫌で人目を避けて食べるようになっていた。
まぁいきなりカップラーメン3個食う女おったらオモロイよな。
売店様様であった

▪️入院生活
初日のPCR検査が終わって4人部屋に移されて一晩経ったが他患の衣擦れの音がうるさくてうるさくて一睡もできず、保護室に入れてもらった。
ずっと叫ぶのを我慢しててここでは叫んでも他患がびっくりしたり怖がったりしないんだ、看護師も大袈裟に近寄ってきたりしないんだ、と安心したら緊張の糸が途切れて一晩中叫ぶか歩くかしていたらいつの間にか疲れて寝ていた。リチウム500㍉ほどにしてから聴覚過敏が悪化しており、水滴が落ちる音も防音壁越しの看護師の笑い声も全てがうるさかった。外からの音を消すためにひたすら叫んだ。

保護室を出た後の2週間はできうる限りヒルナミンの筋肉注射を打ってもらい、頓服のリスパダールを処方箋のmaxまで飲み尽くしてぼんやりしながら過ごしていた。もう暫く時間が経てば退院できると思っていた。
しかし、同じ部屋に独り言をずっと話している患者(Mとする)が入ってきて症状が表面化する。
Mは朝も夜も独り言を話すか歌うかのどちらかだった。いつ寝てるんだろう?早く寝てくれと思った。デイルームと呼ばれる広間では日本語ではない会話が繰り広げられ看護師の怒鳴り声が聞こえる、4人部屋に篭ろうにもMの聞き取れるかどうかの音量の独り言が気になってイライラする。
Mが来て2日ほどで私はギリギリ保ってた理性が壊れて看護師に怒鳴り込んだ。「あの患者をどうにかしろ!」と。
すぐに部屋移動が行われ静かな部屋に移してもらったが、躁転独特のスイッチが入ってしまったので保護室に入れてもらった。

これ以上ここに居られないと思い、退院させてほしいと担当医に話すが「まだ早いですね」としか言われなくてその時は理解できなかったけど、今なら私が担当医でも退院させへんなと思う。2~3日退院させてくれと言ってたが諦めて療養します、と伝えたら「これ以上ゴネたら医療保護入院に切り替えようとしてました」と笑われた。笑い事じゃないんだが。

とにかくこのままでは一生出られないと思い、日中は庭でカショオして、夜は好きな人と通話して、好きな人が差し入れで持ってくれた物を眺めて筋肉注射を減らす、頓服を減らすように努めた。
カショオする時以外ほとんど食べられなかった病院食もできるだけ食べるようにした、寝れてない時もよく寝れたと伝えた。

無事、家から私の受け入れ体制が整ったと連絡があり担当医からも退院してもいいでしょうと許可が出てシャバにでることができた、長かった1ヶ月だった。けど記憶障害のせいかぼんやり過ごしてたせいか書いている以上のことは覚えてない。そんなもんなんかね。

退院して2週間経った。
診察に行くと担当医から「生きてましたね」と笑いかけられた。なかなかユーモアが効く人だなぁ。

実家は戻ってきていいよと言ってくれた。
私のために刑務所のような部屋を用意してくれた。
とてもありがたいことだが、まぁ帰ったら飛び降り自殺するだろうと思ってずっと逃げてる。
本当に死ぬんだろうか?
私の希死念慮は気のせいで、普通に、平穏に、上手く暮らせるんだろうか。
ただひたすら親と過ごすのが恐い。
あの家が恐い。
幼少期の私に死ねと首を絞めた母親とほとんど話したことのない父親とどうやって暮らせばいいかわからない。

入院中の診察で投薬治療は限界と言われたのはなかなかショックがある。死にかけて、助かって、真面目に治療しようと担当医と話して色んな薬を試してきたけど副作用が出るだけで、躁転する時はするし、鬱転する時はするし、自殺未遂する時はする。出たり出なかったりの依存症と一生やっていくしかないのかな。
私はどうやって生きればいいんだろう


読んでくれてありがとう 乱文失礼